2003年6月14日 講演会レジュメ 

共に生きる社会を目指して

竜ヶ崎幼稚園長、竜ヶ崎教会牧師 飯塚拓也

○竜ヶ崎幼稚園の歩み

○教育理念に沿った園舎とは

三つの方針

キリスト教保育⇒真理に生きる子どもとして育つ
自由保育⇒のびのびと その子らしく育つ
共に生きる保育⇒やさしく たくましく育つ
(順番は関係なく、この三つが合わさって竜ヶ崎幼稚園)

共に生きる保育⇒バリアフリーの建物 スロープ・しょうがい者トイレの設置

○共に生きる保育への経過

まだまだ、駆け出しです
1993年(平成5年)一人の入園から  園児数 64名・教員数 4名
1994年   1名          園児数 68名・教員数 6名
1995年   4名          園児数 73名・教員数 7名
1996年  12名          園児数132名・教員数10名
1997年  12名          園児数168名・教員数13名
1998年  15名          園児数166名・教員数11名
1999年  13名          園児数172名・教員数12名
2000年  11名          園児数174名・教員数16名
2001年  13名          園児数184名・教員数15名
2002年  16名          園児数195名・教員数18名
2003年  18名          園児数181名・教員数20名
*しょうがい児が入園しているからといって、園児が減ることはない。むしろ、「だからこそ入園させたい」(入園願書中、本年希望の理由欄より)との声がある。

○なぜ、「共に生きる保育」なのか

統合・交流・合同 ← 「分離」を前提としている
しょうがいのある人は、本来違う人ではない

入園案内パンフレットより)☆共に生きる保育⇒やさしく たくましく育つ

・本当の豊かさは、「共に生きる」ことから生まれます。

幼稚園は、子どもたち同士が自らの力で作り上げていく「社会」です。そして、子どもたちの成長は、その社会の「質」によって大きな影響を受けます。

早い者勝ちの社会から、豊かな人間性が育つでしょうか?

もし競争に負けたら、その人はもうダメな人?

だから、互いの違いを大切にし合う、「共に生きる社会」としての幼稚園が必要なのです。

竜ヶ崎幼稚園では、しょうがい(ひらがなを使います)があるから入園できないということはありません。

竜ヶ崎幼稚園では、しょうがいがあるとされる子の「しょうがい」は、しょうがいではなくて「個性」だと考えています。子どもたちが互いに豊かに育つための、大切な個性なのです。

入園案内竜ヶ崎幼稚園の保育の心より)

◎共に生きること

 竜ヶ崎幼稚園では、園の教育方針に賛同し入園を願う方に入園を許可します。いわゆる、「しょうがい児」と呼ばれる方も同じです。

 「しょうがい児がいると手がかかって、子どもをみてもらえないのでは」という心配があるかも知れません。さて、「しょうがい」とは、その子がどんなに努力してもなお自分の力ではできない部分のことを指します。でも、実際にはどうでしょうか?入園から卒園まで、園にいる間中ずっと、「手がかかっている」のでしょうか?そうではありません。幼稚園に慣れるまでに時間が多少余計にかかったり、トイレや食事などで介助を必要とすることはあります。でも、それだけです。実際の毎日では、徐々に保育者の手を離れ、友だちの中に入り、自分の遊びの世界を作りあげていきます。

 むしろ、「手がかかる」という意味においては、子どもは最初は誰でも手がかかるのです。ぐずったり、泣いたり、不安定な子どもがいたら、しょうがいがあってもなくても関係なく、保育者は「すべての子ども」に心をそそぎます。安定して、遊びの世界に入り込んでいるのに、不必要な手のかけかたをしないだけのことです。

 また、子どもは、泣いて当然だし、ぐずって当然です。それが、子どもの心の表現ですし、心の成長の基盤なのです。どうも、「ぐずること、泣くこと」に神経質になりすぎてはいないでしょうか?「ぐずってはいけない、泣いてはいけない」と決め付けてはいないでしょうか?だから、「しょうがい児は余計に手がかかる」と受け止めてしまうのではと思います。でも、それは、区別であり、差別です。もしかしたら、しょうがい児にだけではなく、私たち同士が区別し合い、差別し合っているのかもしれません。「うちの子は、○○ちゃんみたいではない」と…。この考えは、実は、しょうがい児がいなくても成り立つ考えです。一定の枠からはみ出す子を、すべて問題とする考え方だからです。

 大切なことは、私たちが互いに違いを受けとめあって、「共に生きる」ことだと思います。違いを認め合い、互いに支え合ったり協力し合って生きることが尊いことです。それを、子どもたちは「共に生きる保育」の中で、生活を通して自然に学びます。

 もう一つは、「しょうがい児はいつも、助けてあげなくてはならない存在」という誤った発想です。そうではありません。互いに教え合い、支え合う関係として、しょうがい児だって支えることをしています。対等の友だち関係の中で、すべての子どもたちは生きているのです。

 「共に生きる保育」の中で、子どもたち同士は互いに沢山のことを学び合います。優しさとたくましさを、自然に兼ね備えて成長します。ですから、「手がかかる」という一言でしょうがい児を考えることは、「人間」を考えるうえで、大変危険な発想なのです。

 私たちは、しょうがいがあるとされる子の「しょうがい」は、「しょうがい」ではなく「個性」だと思います。子どもたちが互いに豊かになるための、互いが発揮する個性の一つです。ですから、一人の障碍児に一人の保育者をとは考えません。子どもたちは「対等な関係」の中で、互いを仲間として認め合いますから、しょうがいをもつ子を含めた子ども集団を、担任とフリー教諭とで導いていく体勢をとっています。

○おおかみの論理・スパルタ社会の結末

すべての人に必要なこと いろんな人がいて社会

幼稚園も、学校も、一つの社会だよ




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