こんにちは、31歳男性既婚子供2人(4歳と2歳)です。
私が恋愛について考えるのに割く時間の割合が最も大きかった時期は、20歳ぐらいの頃だと思います。
当然、恋愛感情の対象がいる状況ですね。
考えた内容はというと、今自分が抱いているこの感情は、この寂しさをどうにかしたいっていうことで、恋愛感情とは違うのではないか?っていうことです。
まあ、要するに、恋愛というものに、こう、なんていうかな、自分の情緒面での問題を全部解決しちゃうような、オールマイティな状態であるような意味を持たせて、それを追い求めているような、そんな感じですね。
だから、自分の感情は果たして「本物」かどうかってことにすごくこだわるわけです。
どういったものが「本物」かっていうより具体的なイメージは全然無いんですけどね。
でもそれは、私としては、寂しさとははっきりと区別される必要があった。
はい、はずかしいですね。
「恋に恋する」ってやつの類ですな。
今、少しにやけませんでした、あなた?え、気のせい?
すいません、昔から被害妄想なんで。
一応言っとくけど、後で酒の肴とかにすんなよな。くそ。
横道に逸れましたね。続けましょう。
今そのことを振り返ると、アホだなぁと思います。
今は恋愛とか愛っていうのが一体何なのかをあまり考えません。
「何か名前を持つ物の正体探し」にあまり興味を感じないのです。
日々の暮らしのなかでより心地よい方を選択していく、ただそれだけです。
何か名前を持っているものっていうのは多分、名付けられるだけの価値があるのでしょう。
だから一応、自分の知らない名前に対する興味はあります。
が、前ほどには無い。
知的好奇心がおとろえちゃってるだけかもしれませんね。
でも、恋愛観だけじゃなくて、自分の世界観自体が変わってきたこともあると思うんですよ。
ものごとというのは、恣意的に追求して「理解」できるものではないというのが私の主張です。
経験していないことは「理解」できない。
もちろん恣意的に経験を積むことはできるが、それが的を得ているかどうかはわからないわけです。
そういう場合、普通は指導者を得てがんばったりしますが、恋愛や愛を指導する指導者ってそう多くはいませんよね。まれにすばらしい方がいらっしゃるようですけど。
でも、恋愛や愛の指導者を得たいとは別に思いませんね。
そこまで困窮してないし、今現在、十分幸福だし、指導してもらわなくても大丈夫っていう気もするから、
別にいいかなって感じですか。
自分なりに心地よい暮らしを選択していった結果、自分の人生の終わりまで、「恋愛」や「愛」として語られる共通認識を「理解」できなかったとしても、悔いはないんじゃないかなあと思います。
今の私の恋愛観についてまとめると、
「そんなんどうでもいいや」
ってことです。
これだけだとコワイ奥さんに誤解されるおそれがあるので、
付け足すと、
より心地よいものを選択していった結果、もしかしたら今の私は「恋愛」を知っているのかもしれないし、
そうではないのかもしれない。
どちらにせよ、私にとって重要なのは心地よいかどうかであり、「恋愛」とは何かとか、どのような恋愛が理想かということは、考えるだけ無駄と思うようになり、今では全く興味が無い。
ですが私も若いころは未熟だったから、「本物の恋愛」を空想していた。
あー、すげえ時間使ってしまった。
なんか、きりがないからもうやめときます。
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